そのなかに、秀逸な論文があったのでここで紹介したいと思います。
みなさんに読んでもらいたい。親との葛藤で悩む後継者には特に読んでもらいたい。
できれば、知り合いに転送してもらいたい。えのさん
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自由への扉
B−3 いさちゃん
はじめに
実をいうとこの卒論は当初「小さな会社の活性化法」というタイトルで書かれるはずだった。事実第一稿はそのタイトルに添って書かれ一応の完成をみたのだが、書き終えてみると何かが違っていた。事例のひとつとして書いたつもりの私の父がその論文の主役になってしまっていた。小さな会社の活性化を妨げていたのは実は父であるかもしれなかった。
思いがけず私は父との対話をせまられることになった。
私は子どものころ父に遊んでもらった記憶がまったくと言っていいほどない。今でも覚えている父とのふれあいはある日の夜病院へ連れて行ってもらった帰り、車の中でのワンシーンだけである。運転中、父は膝の上に私をのせてシフトレバーを握らせ「これが1速、これが2速、わかったか?」と言いながらシフト操作をやらせてくれた。いつのことだったのかもわからない
第1章 父の会社
父は平成18年、つまり今年1月8日突然亡くなった。横紋筋融解症という聞いたこともない病名だった。
昭和9年生まれの父は終戦を疎開先で迎えたとき11歳だった。その4年後中学を卒業すると高校に進学することなく社会に飛び出した。魚屋の丁稚奉公を振出しに、タクシー運転手、ダンプカー運転手、砂利の採掘、歩合制のタンクローリー運転手などさまざまな職種を渡り歩き、そこで得た資金をもとに38歳で小さな町工場を興した。
1.中卒で社会に飛び出す
父が中卒で働きに出なければならなかった理由は生活苦だった。一家の大黒柱であるべき祖父は毎日酒浸りで家族の生活をかえりみることがなかった。祖父はもともと愛知県豊橋市で「ひよこの鑑定士」という耳慣れない仕事をしていた。ひよこの雌雄を瞬時に判定していくというような仕事で、祖父は名人として尊敬を集めていたというのだが、これは父がそう言っていただけなので真偽の程は確かめようがない。いずれにしても戦火の拡大によって一家で祖母の実家があった岐阜県恵那市の片田舎に疎開したとき、祖父はその仕事とともに生きがいを失った。祖父の酒の飲み方は尋常ではなかったらしく、毎晩のように酔いつぶれて正体をなくしそのたびに長男である父が迎えにいき連れて帰った。長男とは言ってもまだ小学生、狭い田舎町であるからそのことを知らない人はなく、父は学校でからかわれてずいぶん恥ずかしい思いをしたという。このためか父の酒嫌い、酒飲み嫌いは筋金入りであった。
とまれ中学を卒業すると同時に一家の生活は父の肩に重くのしかかることになった。
2.創業までの道のり
父は魚屋の丁稚奉公からその仕事人生をスタートしたが、絶えず、もっと稼げる仕事はないかを考えていた。なんと言っても生まれたばかりの弟を含めて兄弟5人の生活がかかっていたからだ。18歳になると父は車の免許を取った。学歴のない自分が取れる資格はこれしかないと思ったのだ。当時車の免許を持つ人は少なくメシの食える資格として十分な価値があった。父はこの資格を使ってタクシー運転手になった。そして大型車の運転手の給料が高いことを知ると数年後大型免許をとってダンプカーの運転手になった。さらに砂利の採掘権をとって空いた時間のダンプカーでそれを運んで金にした。この時すでに近所の主婦を砂利の積込役として時間給で使っている。
こうして蓄えた金で父はタンクローリーを買って名古屋港から中津川まで重油を運ぶ仕事を始めた。これは地元のガソリンスタンドからの1キロリットルあたりいくらという請負だった。父はこの仕事で売上を人の倍にする方法を思いついた。それは一日に2回名古屋港に行くことだった。朝4時に起きて名古屋港に行き、昼前には中津川に戻って一度目の重油をおろすとすぐに名古屋に向かった。
その仕事を始めてほどなく自宅の庭に小屋が建ち、近所の主婦が集まってなにやら仕事をするミニ工場ができた。夜、タンクローリーを駐車場に止めて戻ってくると休む間もなく父はライトバンにその日出来上がった製品を積んで地元の工場に納品し翌日の仕事を積んで戻ってきた。そして次の日の段取りを済ませてようやく父の一日が終わった。
この頃どういうきっかけかは分からないが当時市内で初めて、というペットショップも開いている。これは誰に任せていたのかちょっと記憶にないが、どうやらそんなに儲からなかったらしく数年で閉店している。
ミニ工場のほうは今から想像すると内職に毛のはえたようなものであったろうと思うが、おそらく父はこれで手応えをつかんだのだろう。いろいろな会社に重油をおろしながらチャンスをうかがい、ついにある会社の社長の信用を得て下請工場を創った。
この時父は38歳であったが、驚くことにこの時点ですでに5人の兄弟のうち、女4人の嫁入り道具を整えている。
3.超堅実経営
父の会社は私の知る限り最も拡大したときでも社員一人、パートを含めて8人程度の規模であった。しかしながらこの会社は極めて強固な財務体質と高い利益率を持っていた。どれくらい強かったかというと、主取引先二社の内一社が倒産して6か月分の手形が紙切れになったときにも、銀行からの融資を受けることなく乗り切ったといえばわかるだろうか。父は他の債権者のように相手の会社に押しかけるというようなことも一切しなかった。「行ったってしょうがない」。苦労人である父は他人の窮状にはことのほか優しい。金に対する執着は人一倍強かったが自分の中で理由のつくことに対しては意外なほど淡白だった。この時銀行から融資の申し出があったこと、それを必要ないと言って銀行を驚かせたことを父は繰り返し自慢したものであった。
父の会社は「機械設備投資をいっさいしない」という頑なな方針を持っていた。零細企業はいつも仕事のなくなる不安と戦っている。単価のいい仕事を打診されれば普通は喜んで飛びつくものだが、父は必ず「機械を貸してくれて材料を支給してくれるなら」という条件をつけた。小さい会社にいい仕事が回ってくるのは景気がよく生産が間に合わないときだ。普段は無理な条件でもこういうときなら通りやすい。機械と材料の支払いがなければキャッシュフローに余裕が生まれる。特に汎用機でない、専用の生産設備であった場合その仕事が生産終了にでもなったらその瞬間に不良資産と化す。そのリスクも巧みに回避していた。
絶対にかつての貧乏生活には戻らない。その強い決意が父の方針を曲げ得ないものにしていた。そしてその後も大きな危機に遭うことなく堅実経営を続け、十分な老後資産を築いて平成14年、自らその幕を下ろした。
第2章 私の選択
父は30年間、時代の波を乗り越えて小さな会社の社長でありつづけた。その収益でふたりの子どもを大学にやり、家を2軒建て、豊かな老後を過せるだけの資産を築いた。世間的には大成功と呼ばないのかもしれないが社長として30年間会社を存続させたことはそれだけで十分評価に値するはずだ。しかし父は自らを評価するのに必ず他人との比較をして悪口を言わなければ気が済まず、また自分の実績を確認するのに必ず家族の相槌を必要とした。
父には理解者が少なかった。社員と夢を語ることもなかった。そのあまりに直情的な性格ゆえ自分の妻には疎まれ、息子とは断絶し、あろうことか家庭を犠牲にして面倒をみた兄弟たちまでもが父に背を向けた。
1.帰郷
平成4年、父が心臓の手術をするので帰ってくるようにという電話を受けたとき私は東京の歓楽街、六本木で勝手気ままな生活を送っていた。もともとは大学で学ぶための上京だったのだが、とっくに大学には行かなくなっていた。せめてまともな就職を、という父の願いもむなしくホストクラブもどきの店で享楽の日々を過ごしていたのである。
私の行動基準は、まるで期待を裏切ることそれ自体が目的であるかのようだった。いくつか行動の選択肢がある場合、私はそのうち一番親が嫌がりそうな道を選んだ。大学をやめたこともそうだが親が嫌がる道イコール世間の人が選ばない道でもあったので、自分では人のやらないことをやっているつもりであった。親というのは大体において子どもに幸せになって欲しいと願っているものだから、究極の話、私は無意識になるべく不幸になる道を選んでいたことになる。私の別れた妻は、結婚前に「あなたは死ぬときは自殺だと思う」と言った。これから結婚しようという相手に言うせりふではないとは思うが、彼女が感じていたのはきっとこんなことだったのであろう。
父は先天性弁膜症という病気で、心臓に人工弁を取り付けるという大手術ではあったが、あとから知ったところによると命にかかわるような手術ではなかった。しかし父は私の生活を見かねて嘘をついたのだった。「もし自分が死んだら工場で働いている人に迷惑がかかる。帰ってきて仕事を手伝ってくれ」。
2.父との確執
私が帰ってきたとき父は本当にうれしそうだった。家の中で初めて自分の味方ができたとでもいうように何かにつけて私に同意を求めた。
実際母は父のことを嫌っていて、父にとって家は必ずしも居心地のいい場所ではなかった。以前から母は事あるごとに父に対しての怒りを子どもたちにぶちまけていた。いわく、あの人は自分の兄弟のために私を利用した。いわく、あんたたちがいなかったら私はすぐにでも離婚するのに。子どもがいるときはこの愚痴を子どもが引き受けることができたからまだよかったのだろうが、いなくなって全てを夫婦二人で解決することになった途端居心地が悪くなったのだろう。
だから父にとって私が帰ってきたのは息子と一緒に仕事ができるうれしさ以上に、母親の愚痴を言える唯一の相手ができたという喜びがあったのだと思う。
しかし私と父が仲良く仕事ができたのはほんのわずかな期間でしかなかった。なんと言っても私は親の嫌がることをする人間なのだ。親がうれしそうにしているのを許すはずがなかった。一緒に仕事をしている間私と父のいさかいは、時には母を巻き込んで絶えることなく続いた。
言い争いの理由はいろいろあったが仮にひとつ解決しても次から次にさまざまな問題が起こっていたことだろう。
5年後、なかば強引に父の会社を辞めたあと、半年ほど考えて私は自分の会社を創った。顧客ゼロ、実績ゼロ、実をいうとこれからやろうとしている仕事の知識もゼロであった。一緒にやろうと誘った人間に「どんな仕事がやりたい?」と聞いたところデザインがやりたいというので、よしわかったと言って始めてしまったのだ。
3.儲からない私の会社
当初まったく売上のなかった時期を経て私の会社は徐々に売上を伸ばし始めた。しかしそれにともなって公私ともに問題が多発するようにもなってきた。
まずは家庭の問題が起こった。会社を始めてから妻に感じ始めたズレ、なぜ私が会社のことで悩んでいるときに一緒に悩んでくれないのかという不満が抑えきれなくなり言い争いになりついには離婚にまで至った。
ナンバー2に対する不満も絶えることがなかった。仕事に対して不注意で何度も同じ失敗をして会社に損害を与え、注意してもただ黙ってやり過ごすだけという姿勢が何年経っても直らなかったからだ。
その他にも大小さまざまな問題で悩まされて次第に私は意欲を失い会社は小さいままその成長を止めた。
第3章 父を理解する
私はうまくいかなかったことはすべて親のせいにすることで心の平穏を保ってきた。
離婚したのはのは親の愛情が足りなかった上に両親が不仲で家庭に幻滅していたからであり、今私が本来あるべき地位にないのは親が適切なアドバイスをくれなかったからである、というように。
私は多分、親にもっと認めてもらいたかったのだと思う。
父の会社にいるとき言い争った理由はそれなりにすべてもっともらしいことばかりであったが、突き詰めれば、私が「もっと自分のことを認めてくれ」ということをさまざまなバリエーションで言っていたに過ぎなかった。
1.父と通じ合ったとき
私の会社はかつて私が親の会社で働いていたときにもらっていた給料以上を取ろうとすると何故かトラブルが発生する。しかしどんなことがあっても支払いに困るというような事態になることもない。もし会社に意思があったとしたらこの会社は伸びようとしているのかつぶれようとしているのかどちらだろう?
答はおそらく私自身の中にある。
私は昔から負けず嫌いな性格で、学生時代のアルバイトですら常に売上トップでなければ気がすまなかった。当然のことながら今経営者として仕事をしている以上、基準をどこに置くかは別の問題としてもトップを目指していなければおかしい。ところが、もうひとり別の自分がいる。それは、もし私の力でトップになったら私を育てた親を認めることになる。そうすると今まで親のせいにして済ませてきたことが成り立たなくなる。だからトップになりたくない。
経営者である私自身がアクセルとブレーキを同時に踏んでいるのだから会社は迷走する。
私が父を意識して会社の運営をしていることは改めてその歴史を見ると明らかであった。
顧客も何もゼロからスタートしたのは父がかつて貧乏生活で苦労したことを追体験したかったのだろうし、常に人の問題で悩んでいるのも息子や兄弟にまで裏切られた父の追体験である気がする。
死ぬ間際、父が会社にふらっと遊びにきた。そのとき私は創業以来のメンバーが会社をやめることが決まっていささか落ち込んでいた。
「おまえも俺と同じことで悩まないかんのやなあ。むごいなあ‥」
そう父は言うとため息をついた。そう言えばかつて父は、かわいがっていた社員が客をもってやめていったとき何ともいえない複雑な表情をして黙っていた。「もし金に困ることがあれば言えよ」そう言って父は帰っていった。
気が楽になった。誰かに言うようなことではないが、ひとりで考えるにはなかなか重い問題だった。説明することなくすべてが通じたことに私は子どもに戻ったような心地よさを感じた。
2.父が私に言いたかったこと
この文章を書いている間、さまざまな場面のさまざまな父が私の頭の中に登場した。私のことで喜んでいる父は、大学に合格したときや初めて一緒に酒を飲んだときだけではなかった。生意気を言ったとき、父の質問にあっさり答えたとき、母に小遣いをあげたとき、年商が父の会社を超えたとき、「お母さん、もう心配しなくても大丈夫や」と私のことを母に言ったとき‥。
つまり父が喜ぶのは私が大人になったときや自分を超えたときであった。
父がこの煮え切らない息子に言いたかったのは「俺より上に行けよ」という実にシンプルなメッセージであった。
それが分かったとき私の内面で堰を切ったように悔悟の念が溢れ、広がりはじめた。かつて親を悲しませ嘆かせたこと、そのことについてなんらの罪悪感も持たなかったことに私は激しい自己嫌悪を感じた。
しかし多分父はそんな私を見ながら、そうかやっとわかったかというような笑顔でこう言うだろう。
「もうええわ、気にするな」
そして急に真顔に戻ってこう言うはずだ。
「もう言い訳はできんぞ。しっかりやれよ」
3.私から父へ
私は自由になった。
かつての私…、会社が儲かると落ち着きを失い、人との付き合いを作りあげると壊したがる、何かにつけうまくいくことに違和感を覚え、不安材料を探しては安心していた私、はもう存在しない。
これからの私は、私と私にかかわる人たちを幸せにすることを目的に前向きに生きていこう。思う存分仕事をし、堂々とお金を儲けよう。
父を苦しませ、一生を支配したお金。私はそれに新たな意味を加えることで父を乗り越えたいと思う。
「え、でかいことを言うな? まあ見とってくれ!」
おわりに
かつて父は、仕事を失ってから酒に溺れ肝臓を患ってわずか48歳で死んだ自分の父親について「俺はあんな弱い人間には絶対にならない」と言い、酒と酒飲みを心の底から嫌っていた。しかし会社をたたんで引退してからしばらくして私の会社に遊びに来たときふっと「親父もつらかったんやろうな」と言った。そこには人間の弱さを克服しようともがいたがゆえに分かる共感のようなものが感じ取れた。そして世代を越えて今、私は、父が祖父に感じた共感と同じ共感を父に対して持つことができる。
このMBAに申し込みをしたとき父はまだ生きていたが、躊躇する私の背中を押してくれたのは父だったような気がしてならない。
人の意見を聞かないことが強さの証明であるかのように思っていた私が一年間でこんなに素直に他人の意見を取り入れられるようになったのは当の私が一番驚いている。もしかしたら父が頭の後ろで呪文を唱えていたのかもしれません。
「これが1速、これが2速、わかったか?」
卒論とはいえないような内容の代物になってしまいましたが、私個人としては書き終えて晴ればれした気持ちです。
一年間続けられたことをえのさんはじめフォスターのスタッフ、また、ともに机を並べてくれた2期生の皆さんに感謝します。
また目次を見ただけで私の父に対する思いを引き出してくださった杉浦さん、アンケートに協力してくださった埼玉学園大学の岩崎教授にも謝意を申し上げます。


感謝の気持ちで事業を継承していきたく思いました。
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もしかしたら父が頭の後ろで呪文を唱えていたのかもしれません。「これが1速、これが2速、わかったか?」
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朝から涙しながらに感動しました。
今を受け入れることを恐れ、いつも新しい歩みだしを求めているように振舞う自分が居ます。結局はほんの少しの修正で終わっているのに。
もっと、堂々と今を生きてみようかなと感じました。
お父様との関わりから、ご自分で気付かれたことがすばらしいと感じました。
子を持つ親として、子供に対して真摯に接しなければとも感じました。
どうもありがとうございます。
この論文を読んで深く考えさせられています。
私も父のようになりたいと思っておらず、反発し続けています。
父のことを何かにつけて言い訳にしている自分がいます。
父に認められたいと思っているのに、父のことを認めようとしない自分がいる。
そのことさえ受け入れたくない…
父のことを認められた3−Bいさちゃんさんをすごいと同時にうらやましく思います。
もっとがむしゃらに働き、父のことを認められる器と経験を手にしようと思いました。
自分自身もB−3いさちゃんと同じ二代目です。
今日話せば話すほど自分自身の考えの甘さがどんどんと出てきて初めて親父の前で号泣しました。
親ってすごく当たり前なのかもしれないけれど、子供の事を必要以上に考えてくれているのですね。
B−3いさちゃんの記憶はたった一つ一速二速という話
、僕にとっては今日の親父からの一言!
「将来お前が幸せになることを望むには…」
どの話の最初にもこの言葉が文頭になっていました。
今日は最高のクリスマスイブです!