2007年03月06日

えのさん物語(5) 「商売は面白い」 えのさん物語.gif

 えのさんは高校ニ年、文化祭のクラスリーダーになった。
他のクラスのほとんどは飲食の模擬店や展示だったが、
人と同じことをするのが嫌いなえのさんは、
映画館に挑戦することにした。

ビデオがまだ無い時代、クラスメートが8mmビデオを持っていたので、
シナリオを書き、裏山でロケ、編集して15分の映画が完成。
映像は粗末なものだが、当時は自分や自分の知っている人、
景色などが映像の中で動くことが新鮮だった。

映画は大ヒット、チケットと大学イモとのセット販売で50円、
1000セットを完売し2万円ほどの利益になった。
本当は売上を報告し、学校に上納する規則だったが、
クラス全員でラーメンを食べに行って大いに盛り上がった。
 後から、同じクラスの生徒会の生徒にちくられ、
危なかったが、なんとかしらばっくれて事なきをえた。

えのさんは高校三年、年末はレコード大賞がある。
当時はまだ超人気番組で誰がレコード大賞をとるのかが
大いに話題になっていた。その年の新人賞のノミネートは、
ヒットを連発した本命のアグネスチャン、
主催のTBSの人気番組「時間ですよ」のマドンナ、
となりのみよちゃんの浅田美代子が対抗、
次に美人歌手あべ静江、そして桜田淳子と安西マリアの5人だった。

 どうせなら、賭けたら楽しいぞと、
えのさんはクラスメートに馬券を売った。
売上総額は1万円を越え大いに盛り上がった。
新人賞は大穴桜田淳子の「私の青い鳥」に決まった。
配当は3000円を超えた。

 あまりの盛り上がりに、あわや停学さわぎになってしまった。
posted by えのさん at 17:48 | Comment(24) | TrackBack(8) | えのさん物語

2007年02月26日

えのさん物語(4)「こどもが商売して、何が悪いのか」 えのさん物語.gif

 小学5年生になったえのさんは、サッカーを始めた。
いまでは考えられないことだが、サッカーはほとんど誰も知らなかった。メジャーなスポーツと言えば圧倒的に野球だった。
東京オリンピックで日本が大活躍したバレー、体操、そしてテニス。
人と違うことが好きなえのさんは、サッカーを選んだ。

 ひとりではできないので仲間を募ったが、
5人しか集まらなかった。とにかく始めようとしたが、
道具がない。えのさんはボールがたくさん欲しかった。

 そこで、廃品回収で稼ごうと思いついた。
いかにも学校の活動のように話して、民家をまわり、
廃品をもらってきた。古物商に持っていくと、
どこから持って来たと問い詰められたが、
ちゃんともらってきたと説明して何とか数千円に換金できた。
そのお金でボールを6個買って練習を始めたが、
数日後、先生から呼び出し、
どうやら古物商が学校に連絡したらしい。

 買ったものが、ボールだったので許してもらったが、
子供がそんなことをしてはいけないときつく言い聞かされた。
少し嘘をついて、廃品を集めたので、後ろめたいところもあったが、
何で、子供が稼いではいけないのかが理解できなかった。
まあいいや、大人になったらしっかり稼ごうとえのさんは思った。

posted by えのさん at 20:46 | Comment(2) | TrackBack(0) | えのさん物語

2007年01月03日

どんな時にフラップ前に自分から上げていくのか ポーカー.gif

ボタンで無い場合、強いベット順に書くと

ランク1 QQ、AK   20枚くらい
ランク2 KK、JJ   15枚くらい
ランク3 AA AQ TT 10枚くらい

ベットを強くするのは、相手に降りて欲しいから。例えば、QQの場合、フラップでAまたはKが出ると強気になれない。だからできれば早く降ろしたい。
AKもフラップでペアにならないと辛いので、なるべくここでおろしたい。それでもついてくるのはポケットペアかAJ以上くらい。相手の手もだいたい絞れるからあとの戦略もたてやすい。

また、AA、KK、AKはフラップで3枚のスーツや3枚並びが出ない場合は、何が出ようがボタン分のベットを行なう。そうする理由は、相手から見た場合その3種のうち、どれで来ているかがわからないようにしたいからだ。
 例えば、KKを持ってるときに、15枚でレイズしたとする。2人がついてきて、ポットが50枚になって、A93とフラップしたら、迷わず50枚ベットする。そうすると、相手はこちらがAKと感じる。そこでついてこられたらそれで終わり。同様にAKでJ86と出ても50枚ベットで突き進む。
 成功確率は2分の1で合う。コールされてもターンでAまたはKがでればまだ戦える。

ボタンの場合は、相手を見ながら考えるので、これといった決まりはない。ベットの数も、リンプインしてきた数で決める。特にポケットペアの場合は、そこそこ(15枚)にベットする。それについてくる手はかなり強い。万一セットになれば大儲けになる。
posted by えのさん at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | ポーカー

2007年01月02日

強みに視点をあわせる3 経営ノウハウ.gif

 ふたりはもういちど話し合った。ふたりの性格や価値感をいまさら変えるわけにはいかないので、お客さんがどうして欲しいのかという視点でみることにした。お客さんが望んでいるのは、もっとおいしい料理が食べられることと、さらに気持ちのいい接客を受けられることだ。お互い、相手の持ち場を勉強するより、自分の持ち場をもっともっと磨いたほうが顧客満足につながることに気付いた。
英二は料理5接客1だから接客を2にすることより料理を6にする努力をする。洋子は接客5料理1だから、料理を2にすることより接客を6にする努力をすることにした。そう決めて実行、しばらくするとお客様からの、「最近、また一段とおいしくなったねえ」という反応。お互いが5と2であるより、6と1であったほうが、お客様は喜んでくれることがはっきりわかった。

では、ふたりの協力はなくていいのかということだがそうではない。洋子は接客の際に、英二から教わった素材や料理法の解説を付けることで接客力を上げた。英二は洋子から、顧客の増やして欲しいメニューなどを聞くことで、料理の工夫を続けていった。

パートナーの弱みをみると、関係が悪くなるばかりではなく、顧客満足を上げていくこともできなくなる。企業の価値は、その企業なりの最高のものを更に上げることでのみ、上積みすることができる。強みに視点をあわせる経営が求められる。
posted by えのさん at 19:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経営ノウハウ

2006年12月25日

強みに視点をあわせる2 経営ノウハウ.gif

 お店は順調に伸びていたが、うまくいけばいったで問題は起こる。忙しすぎるとどうしてもイライラする。
ランチの時間はいっきにお客様がくる。最初は作るのが忙しい。英二が必死になって作っているときに、手持ち無沙汰な洋子に「まだー」とか言われると、わかっていながらも腹が立つ。手が空いてるならチッタア手伝えよ、といいたいが、作るのは自分の仕事だから仕方がない。
 料理が追いつきだすと今度はホールが忙しくなる。必死になってテーブルまで運ぶ洋子だが、追いつかないのに、「おい、はやく運ばないと冷めちゃうぞ」と奥から英二の声。運ぶのは自分の仕事でも、作り終わったら、運ぶのも手伝ってよと言いたくもなる。
 あるひ、ランチタイムが終わった後に、そのことを話し合った。お互いがもう少し相手の仕事もできるように努力するかということになったが、そもそもお互い、苦手な上にやりたい仕事ではない。この試みは、見事に失敗し、かえって、現場で言い争いが絶えなくなってしまった。
 
 それぞれ、自分の仕事にはプライドもあるし、こだわりもある。パートナーが、その価値に目を向けてくれないと、自分自身の価値感が否定されたように感じる時がある。料理なんか多少うまくてもまずくてもたいしたことないのよ、と洋子が自分に言っている。メシがうまけりゃ、愛想が悪くても客はくる、めしを食いに来てるのだからと英二が言っている。お互いが、相手が自分を否定しているととらえてしまうのだ。
 相手は、実際には、そんなことすらも考えてない。自分の価値に生きているのだから、味に興味のない洋子にとって、味はついで以上でも以下でもない。こういう行き違いが組織を壊していく。(次回に続く)
posted by えのさん at 23:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 経営ノウハウ

2006年12月23日

父親を生きる フリートーク.gif

昨日、えのさん流MBA第2期の卒業式が行なわれた。一年の学びの〆は、最終講の卒論の発表になる。
そのなかに、秀逸な論文があったのでここで紹介したいと思います。
みなさんに読んでもらいたい。親との葛藤で悩む後継者には特に読んでもらいたい。
できれば、知り合いに転送してもらいたい。えのさん
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自由への扉

B−3 いさちゃん

はじめに

実をいうとこの卒論は当初「小さな会社の活性化法」というタイトルで書かれるはずだった。事実第一稿はそのタイトルに添って書かれ一応の完成をみたのだが、書き終えてみると何かが違っていた。事例のひとつとして書いたつもりの私の父がその論文の主役になってしまっていた。小さな会社の活性化を妨げていたのは実は父であるかもしれなかった。
思いがけず私は父との対話をせまられることになった。
私は子どものころ父に遊んでもらった記憶がまったくと言っていいほどない。今でも覚えている父とのふれあいはある日の夜病院へ連れて行ってもらった帰り、車の中でのワンシーンだけである。運転中、父は膝の上に私をのせてシフトレバーを握らせ「これが1速、これが2速、わかったか?」と言いながらシフト操作をやらせてくれた。いつのことだったのかもわからない

第1章 父の会社

父は平成18年、つまり今年1月8日突然亡くなった。横紋筋融解症という聞いたこともない病名だった。
昭和9年生まれの父は終戦を疎開先で迎えたとき11歳だった。その4年後中学を卒業すると高校に進学することなく社会に飛び出した。魚屋の丁稚奉公を振出しに、タクシー運転手、ダンプカー運転手、砂利の採掘、歩合制のタンクローリー運転手などさまざまな職種を渡り歩き、そこで得た資金をもとに38歳で小さな町工場を興した。
  
1.中卒で社会に飛び出す

父が中卒で働きに出なければならなかった理由は生活苦だった。一家の大黒柱であるべき祖父は毎日酒浸りで家族の生活をかえりみることがなかった。祖父はもともと愛知県豊橋市で「ひよこの鑑定士」という耳慣れない仕事をしていた。ひよこの雌雄を瞬時に判定していくというような仕事で、祖父は名人として尊敬を集めていたというのだが、これは父がそう言っていただけなので真偽の程は確かめようがない。いずれにしても戦火の拡大によって一家で祖母の実家があった岐阜県恵那市の片田舎に疎開したとき、祖父はその仕事とともに生きがいを失った。祖父の酒の飲み方は尋常ではなかったらしく、毎晩のように酔いつぶれて正体をなくしそのたびに長男である父が迎えにいき連れて帰った。長男とは言ってもまだ小学生、狭い田舎町であるからそのことを知らない人はなく、父は学校でからかわれてずいぶん恥ずかしい思いをしたという。このためか父の酒嫌い、酒飲み嫌いは筋金入りであった。
とまれ中学を卒業すると同時に一家の生活は父の肩に重くのしかかることになった。

2.創業までの道のり

父は魚屋の丁稚奉公からその仕事人生をスタートしたが、絶えず、もっと稼げる仕事はないかを考えていた。なんと言っても生まれたばかりの弟を含めて兄弟5人の生活がかかっていたからだ。18歳になると父は車の免許を取った。学歴のない自分が取れる資格はこれしかないと思ったのだ。当時車の免許を持つ人は少なくメシの食える資格として十分な価値があった。父はこの資格を使ってタクシー運転手になった。そして大型車の運転手の給料が高いことを知ると数年後大型免許をとってダンプカーの運転手になった。さらに砂利の採掘権をとって空いた時間のダンプカーでそれを運んで金にした。この時すでに近所の主婦を砂利の積込役として時間給で使っている。
こうして蓄えた金で父はタンクローリーを買って名古屋港から中津川まで重油を運ぶ仕事を始めた。これは地元のガソリンスタンドからの1キロリットルあたりいくらという請負だった。父はこの仕事で売上を人の倍にする方法を思いついた。それは一日に2回名古屋港に行くことだった。朝4時に起きて名古屋港に行き、昼前には中津川に戻って一度目の重油をおろすとすぐに名古屋に向かった。
その仕事を始めてほどなく自宅の庭に小屋が建ち、近所の主婦が集まってなにやら仕事をするミニ工場ができた。夜、タンクローリーを駐車場に止めて戻ってくると休む間もなく父はライトバンにその日出来上がった製品を積んで地元の工場に納品し翌日の仕事を積んで戻ってきた。そして次の日の段取りを済ませてようやく父の一日が終わった。
この頃どういうきっかけかは分からないが当時市内で初めて、というペットショップも開いている。これは誰に任せていたのかちょっと記憶にないが、どうやらそんなに儲からなかったらしく数年で閉店している。
ミニ工場のほうは今から想像すると内職に毛のはえたようなものであったろうと思うが、おそらく父はこれで手応えをつかんだのだろう。いろいろな会社に重油をおろしながらチャンスをうかがい、ついにある会社の社長の信用を得て下請工場を創った。
この時父は38歳であったが、驚くことにこの時点ですでに5人の兄弟のうち、女4人の嫁入り道具を整えている。

3.超堅実経営

父の会社は私の知る限り最も拡大したときでも社員一人、パートを含めて8人程度の規模であった。しかしながらこの会社は極めて強固な財務体質と高い利益率を持っていた。どれくらい強かったかというと、主取引先二社の内一社が倒産して6か月分の手形が紙切れになったときにも、銀行からの融資を受けることなく乗り切ったといえばわかるだろうか。父は他の債権者のように相手の会社に押しかけるというようなことも一切しなかった。「行ったってしょうがない」。苦労人である父は他人の窮状にはことのほか優しい。金に対する執着は人一倍強かったが自分の中で理由のつくことに対しては意外なほど淡白だった。この時銀行から融資の申し出があったこと、それを必要ないと言って銀行を驚かせたことを父は繰り返し自慢したものであった。 
父の会社は「機械設備投資をいっさいしない」という頑なな方針を持っていた。零細企業はいつも仕事のなくなる不安と戦っている。単価のいい仕事を打診されれば普通は喜んで飛びつくものだが、父は必ず「機械を貸してくれて材料を支給してくれるなら」という条件をつけた。小さい会社にいい仕事が回ってくるのは景気がよく生産が間に合わないときだ。普段は無理な条件でもこういうときなら通りやすい。機械と材料の支払いがなければキャッシュフローに余裕が生まれる。特に汎用機でない、専用の生産設備であった場合その仕事が生産終了にでもなったらその瞬間に不良資産と化す。そのリスクも巧みに回避していた。
絶対にかつての貧乏生活には戻らない。その強い決意が父の方針を曲げ得ないものにしていた。そしてその後も大きな危機に遭うことなく堅実経営を続け、十分な老後資産を築いて平成14年、自らその幕を下ろした。


第2章 私の選択

  父は30年間、時代の波を乗り越えて小さな会社の社長でありつづけた。その収益でふたりの子どもを大学にやり、家を2軒建て、豊かな老後を過せるだけの資産を築いた。世間的には大成功と呼ばないのかもしれないが社長として30年間会社を存続させたことはそれだけで十分評価に値するはずだ。しかし父は自らを評価するのに必ず他人との比較をして悪口を言わなければ気が済まず、また自分の実績を確認するのに必ず家族の相槌を必要とした。
  父には理解者が少なかった。社員と夢を語ることもなかった。そのあまりに直情的な性格ゆえ自分の妻には疎まれ、息子とは断絶し、あろうことか家庭を犠牲にして面倒をみた兄弟たちまでもが父に背を向けた。
  
1.帰郷

平成4年、父が心臓の手術をするので帰ってくるようにという電話を受けたとき私は東京の歓楽街、六本木で勝手気ままな生活を送っていた。もともとは大学で学ぶための上京だったのだが、とっくに大学には行かなくなっていた。せめてまともな就職を、という父の願いもむなしくホストクラブもどきの店で享楽の日々を過ごしていたのである。
私の行動基準は、まるで期待を裏切ることそれ自体が目的であるかのようだった。いくつか行動の選択肢がある場合、私はそのうち一番親が嫌がりそうな道を選んだ。大学をやめたこともそうだが親が嫌がる道イコール世間の人が選ばない道でもあったので、自分では人のやらないことをやっているつもりであった。親というのは大体において子どもに幸せになって欲しいと願っているものだから、究極の話、私は無意識になるべく不幸になる道を選んでいたことになる。私の別れた妻は、結婚前に「あなたは死ぬときは自殺だと思う」と言った。これから結婚しようという相手に言うせりふではないとは思うが、彼女が感じていたのはきっとこんなことだったのであろう。
父は先天性弁膜症という病気で、心臓に人工弁を取り付けるという大手術ではあったが、あとから知ったところによると命にかかわるような手術ではなかった。しかし父は私の生活を見かねて嘘をついたのだった。「もし自分が死んだら工場で働いている人に迷惑がかかる。帰ってきて仕事を手伝ってくれ」。

2.父との確執

私が帰ってきたとき父は本当にうれしそうだった。家の中で初めて自分の味方ができたとでもいうように何かにつけて私に同意を求めた。
実際母は父のことを嫌っていて、父にとって家は必ずしも居心地のいい場所ではなかった。以前から母は事あるごとに父に対しての怒りを子どもたちにぶちまけていた。いわく、あの人は自分の兄弟のために私を利用した。いわく、あんたたちがいなかったら私はすぐにでも離婚するのに。子どもがいるときはこの愚痴を子どもが引き受けることができたからまだよかったのだろうが、いなくなって全てを夫婦二人で解決することになった途端居心地が悪くなったのだろう。
だから父にとって私が帰ってきたのは息子と一緒に仕事ができるうれしさ以上に、母親の愚痴を言える唯一の相手ができたという喜びがあったのだと思う。
しかし私と父が仲良く仕事ができたのはほんのわずかな期間でしかなかった。なんと言っても私は親の嫌がることをする人間なのだ。親がうれしそうにしているのを許すはずがなかった。一緒に仕事をしている間私と父のいさかいは、時には母を巻き込んで絶えることなく続いた。
言い争いの理由はいろいろあったが仮にひとつ解決しても次から次にさまざまな問題が起こっていたことだろう。
5年後、なかば強引に父の会社を辞めたあと、半年ほど考えて私は自分の会社を創った。顧客ゼロ、実績ゼロ、実をいうとこれからやろうとしている仕事の知識もゼロであった。一緒にやろうと誘った人間に「どんな仕事がやりたい?」と聞いたところデザインがやりたいというので、よしわかったと言って始めてしまったのだ。

3.儲からない私の会社

当初まったく売上のなかった時期を経て私の会社は徐々に売上を伸ばし始めた。しかしそれにともなって公私ともに問題が多発するようにもなってきた。
まずは家庭の問題が起こった。会社を始めてから妻に感じ始めたズレ、なぜ私が会社のことで悩んでいるときに一緒に悩んでくれないのかという不満が抑えきれなくなり言い争いになりついには離婚にまで至った。
ナンバー2に対する不満も絶えることがなかった。仕事に対して不注意で何度も同じ失敗をして会社に損害を与え、注意してもただ黙ってやり過ごすだけという姿勢が何年経っても直らなかったからだ。
その他にも大小さまざまな問題で悩まされて次第に私は意欲を失い会社は小さいままその成長を止めた。

第3章 父を理解する

私はうまくいかなかったことはすべて親のせいにすることで心の平穏を保ってきた。
離婚したのはのは親の愛情が足りなかった上に両親が不仲で家庭に幻滅していたからであり、今私が本来あるべき地位にないのは親が適切なアドバイスをくれなかったからである、というように。
私は多分、親にもっと認めてもらいたかったのだと思う。
父の会社にいるとき言い争った理由はそれなりにすべてもっともらしいことばかりであったが、突き詰めれば、私が「もっと自分のことを認めてくれ」ということをさまざまなバリエーションで言っていたに過ぎなかった。


1.父と通じ合ったとき

私の会社はかつて私が親の会社で働いていたときにもらっていた給料以上を取ろうとすると何故かトラブルが発生する。しかしどんなことがあっても支払いに困るというような事態になることもない。もし会社に意思があったとしたらこの会社は伸びようとしているのかつぶれようとしているのかどちらだろう?
答はおそらく私自身の中にある。
私は昔から負けず嫌いな性格で、学生時代のアルバイトですら常に売上トップでなければ気がすまなかった。当然のことながら今経営者として仕事をしている以上、基準をどこに置くかは別の問題としてもトップを目指していなければおかしい。ところが、もうひとり別の自分がいる。それは、もし私の力でトップになったら私を育てた親を認めることになる。そうすると今まで親のせいにして済ませてきたことが成り立たなくなる。だからトップになりたくない。
経営者である私自身がアクセルとブレーキを同時に踏んでいるのだから会社は迷走する。
私が父を意識して会社の運営をしていることは改めてその歴史を見ると明らかであった。
顧客も何もゼロからスタートしたのは父がかつて貧乏生活で苦労したことを追体験したかったのだろうし、常に人の問題で悩んでいるのも息子や兄弟にまで裏切られた父の追体験である気がする。
死ぬ間際、父が会社にふらっと遊びにきた。そのとき私は創業以来のメンバーが会社をやめることが決まっていささか落ち込んでいた。
「おまえも俺と同じことで悩まないかんのやなあ。むごいなあ‥」
そう父は言うとため息をついた。そう言えばかつて父は、かわいがっていた社員が客をもってやめていったとき何ともいえない複雑な表情をして黙っていた。「もし金に困ることがあれば言えよ」そう言って父は帰っていった。
気が楽になった。誰かに言うようなことではないが、ひとりで考えるにはなかなか重い問題だった。説明することなくすべてが通じたことに私は子どもに戻ったような心地よさを感じた。

2.父が私に言いたかったこと

この文章を書いている間、さまざまな場面のさまざまな父が私の頭の中に登場した。私のことで喜んでいる父は、大学に合格したときや初めて一緒に酒を飲んだときだけではなかった。生意気を言ったとき、父の質問にあっさり答えたとき、母に小遣いをあげたとき、年商が父の会社を超えたとき、「お母さん、もう心配しなくても大丈夫や」と私のことを母に言ったとき‥。
つまり父が喜ぶのは私が大人になったときや自分を超えたときであった。
父がこの煮え切らない息子に言いたかったのは「俺より上に行けよ」という実にシンプルなメッセージであった。
それが分かったとき私の内面で堰を切ったように悔悟の念が溢れ、広がりはじめた。かつて親を悲しませ嘆かせたこと、そのことについてなんらの罪悪感も持たなかったことに私は激しい自己嫌悪を感じた。
しかし多分父はそんな私を見ながら、そうかやっとわかったかというような笑顔でこう言うだろう。
「もうええわ、気にするな」
そして急に真顔に戻ってこう言うはずだ。
「もう言い訳はできんぞ。しっかりやれよ」

3.私から父へ

  私は自由になった。
  かつての私…、会社が儲かると落ち着きを失い、人との付き合いを作りあげると壊したがる、何かにつけうまくいくことに違和感を覚え、不安材料を探しては安心していた私、はもう存在しない。
  これからの私は、私と私にかかわる人たちを幸せにすることを目的に前向きに生きていこう。思う存分仕事をし、堂々とお金を儲けよう。
  父を苦しませ、一生を支配したお金。私はそれに新たな意味を加えることで父を乗り越えたいと思う。
 
 「え、でかいことを言うな? まあ見とってくれ!」
  

おわりに

かつて父は、仕事を失ってから酒に溺れ肝臓を患ってわずか48歳で死んだ自分の父親について「俺はあんな弱い人間には絶対にならない」と言い、酒と酒飲みを心の底から嫌っていた。しかし会社をたたんで引退してからしばらくして私の会社に遊びに来たときふっと「親父もつらかったんやろうな」と言った。そこには人間の弱さを克服しようともがいたがゆえに分かる共感のようなものが感じ取れた。そして世代を越えて今、私は、父が祖父に感じた共感と同じ共感を父に対して持つことができる。
このMBAに申し込みをしたとき父はまだ生きていたが、躊躇する私の背中を押してくれたのは父だったような気がしてならない。
人の意見を聞かないことが強さの証明であるかのように思っていた私が一年間でこんなに素直に他人の意見を取り入れられるようになったのは当の私が一番驚いている。もしかしたら父が頭の後ろで呪文を唱えていたのかもしれません。
「これが1速、これが2速、わかったか?」


卒論とはいえないような内容の代物になってしまいましたが、私個人としては書き終えて晴ればれした気持ちです。
一年間続けられたことをえのさんはじめフォスターのスタッフ、また、ともに机を並べてくれた2期生の皆さんに感謝します。
また目次を見ただけで私の父に対する思いを引き出してくださった杉浦さん、アンケートに協力してくださった埼玉学園大学の岩崎教授にも謝意を申し上げます。




posted by えのさん at 01:10 | Comment(5) | TrackBack(1) | フリートーク

2006年12月20日

えのさん物語(3)「スイカの中身」 えのさん物語.gif

 えのもと果物店では、夏になると店頭で三日月型に切ったスイカを一切れ百円で売っていた。スイカを切るのは、普段は店にいないおとうちゃんの数少ない仕事だった。刃渡り50センチはあろうかというでっかい包丁で、スパッと半分に切る。ここからが真骨頂なのだが、その半分のスイカを更に10個に切る。三日月型になった10個のスイカをまな板に並べると、ほとんど厚さが変わらない。

 えのさんはいつも感心しながら見ていた。えのさんもやってみたくて、腐ったスイカをもらって練習。でもなかなかうまく切れない。太いのと細いので倍くらいの違いが出るし、端から順に切っていくのでちょうど10個にはなかなかならない。

 おとうちゃんにはもうひとつすごい特技があった。スイカをたたくと中身のようすがわかるのだ。えのさんは不思議だった。確かに、スイカを切って売るので、熟してなくて中が白かったり、熟し過ぎて綿のようにざらざらになっていたら売れない。
「計介、これは中が少しざらついて空洞がある」といいながら切ると、本当にその通りの中身がでてくる。
「おとうちゃん、なんでわかるの?」と聞くと、おとうちゃんは勘だと答えた。えのさんはしつこく聞く。
「どうしたら、そんな勘ができるの?」
おとうちゃんは、それはなんどもなんどもスイカを切ったからだと答えた。

 それからえのさんがとった行動は、おとうちゃんに頼んで、おとうちゃんが切る前に、スイカをたたいて中身を当てさせてもらった。これは、腐ってる。これはまだ浅い。これは綿になってる。と訓練していった。小学高学年になった頃には、えのさんもりっぱに中身を当てられるようになっていた。
posted by えのさん at 10:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | えのさん物語

2006年12月17日

えのさん物語(2)「生やないけど、、生たまご事件」 えのさん物語.gif

駅のキオスクなどで、ゆで卵を2.3個袋に入れて売っているのを見たことがあると思うが、 榎本果実店はキオスクにそれを卸していた。だから、えのさんは小さい頃から何百、何千というたまごに囲まれて暮らしていた。

 えのさんは、茹であがった卵を3個づつネットの袋に入れて口を止めるというバイトをしていた。一袋につき1円バイト代だった。その日は、どうしても買いたいおもちゃがあったが、今日はゆであがった卵が少なく、もう少し、つめないと、その小遣いがでない。
 
 えのさんは、自分で卵をゆでて、数を増やそうと試みた。いつも大きな釜に200個くらい入れて、沸騰したら火を止めていたのを憶えていたえのさんは、小さなナベに40個くらい入れて沸騰するのを待った。
しかし、小さな鍋ではすぐに沸騰するので、卵は十分に茹で上がっていない。ほとんど生だった。

 翌日、おとうちゃんの叫び声。
「計介、お前、どこのたまごつめたんや」
 あまりの剣幕に恐くなって、ぐずぐずしていると、
「とにかくいくつ生たまごをつめたんや」
と責められ、生やないけどと思いつつも
「5つくらい」
と答えてしまった。しかし本当は15袋くらいだった。

 車内で、ゆで卵だと思って割ったお客様の悲鳴は、叱られているえのさんには届かない。翌日、さらに大目玉を喰ったことは想像通り。この頃から、何かにつけ、与えられたものをその通りやる子ではなかった。

 「今度はばれないように、一個、割って確かめよう」
 ぜんぜん反省の色がないえのさん。でも、たくましい商魂でもあった。
posted by えのさん at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(1) | えのさん物語

2006年12月11日

えのさん物語(1)「えのさんは子供の頃から商売人」 えのさん物語.gif

 えのさんは1955年、和歌山県の新宮市に生まれた。新宮市は当時人口4万2千人、三重県との県境、熊野川の河口にある、いなかの割には活気のある町だった。
そこで、両親は10坪弱の「えのもと果物店」を経営していた。ちっちゃい頃からえのさんのやんちゃは変わらない。いたずらがすぎて両親は、近所に謝ってまわる日々だった。

 小学校にあがる頃から、えのさんはおかあちゃんの手伝いで店番を始めた。ここがえのさんの商魂を鍛える道場になった。3年生くらいになると、ひとりで店番ができるようになった。おかあちゃんは夕方になると、おとうちゃんの食事の世話をするために、500メートルほど離れた自宅に帰っていた。その間、えのさんはひとりで店番をすることになる。

新宮駅はゲームの桃太郎電鉄にも出てくる国鉄の拠点で、大阪行きの始発駅になっていた。えのもと果物店は駅前にあって、夜10時40分の最終夜行列車にのるお客さんが終わったら店を閉めていた。おかあちゃんは9時頃店に戻ってきて、えのさんは、閉店までいっしょに手伝った。

えのもと果物店の脇の路地を入ると、飲み屋街があった。夜になると酔っ払いのおっさんとホステスが店の前を通る。気前の良さそうなおっさんがええカッコして、ホステスにくだものを買ってあげる。えのさんは愛想良くしてると、おつりをこずかいにくれることが良くあることを知っている。一日20円だったこずかいから考えると、もらったおつりはけっこう大きい。

なかには横柄なおっさんもいたが、商売人のチビえのさんは気にしない。くだものを買ってもらったホステスが、客を見送った帰りに、「バカなおっさんだね」ってえのさんに笑いかける。世の中の裏表を日々、当たり前のように見ながら育っていった。
posted by えのさん at 22:50 | Comment(2) | TrackBack(0) | えのさん物語

2006年12月10日

どんな手だったらコールしてフラップを見にいくのか ポーカー.gif

1−2のレートとするなら、
レイズが無い状態、レイズ10前後、レイズ20以上で変わる。
ボタンでない場合とボタンの場合で変わる。

ボタンでない場合、レイズがない場合
@T以上2枚ある場合
AスーツでAまたはKがある場合
Bスーツで5、8のように間が2つまでの場合
Cペアの場合
ボタンの場合、上記に加え
@Aがある場合
AKと8.9の場合
Bオフスーツの4.5以上の並び
Cスーツはすべて
Dビック・スモールブラインドだけになった場合

レイズ10前後に対して
@J以上の2枚がある場合
AスーツでAがある場合
Bスーツで8.9のように並んでいる場合
Cペアの場合

レイズ20以上の場合
@AQ、AK
AAとT以上のスーツ
BT以上のペア

私の場合は、これくらいが標準、当然、相手によって、何人かによって変わる。
これは、あくまで相手からあげてくる場合だが、自分からあげる場合も当然ある。

DSC00680.JPG
posted by えのさん at 23:00 | Comment(2) | TrackBack(0) | ポーカー

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